わたしがキャリアコンサルタントになった理由を遡ると、今は亡き母親の呪縛にたどり着きます。転職が多いことが、母子関係の歪みに相関があることを、キャリアカウンセリングを学ぶ過程で指摘されたのです。
母が亡くなって3年経った今なら、気持ちの整理ができそうかなと思い、チャレンジしたいと思います。
・母親との関係性を幼少期から振り返ることで、わたしがひかえめに生きてきた理由と生きづらさの正体を紐解く
・キャリアカウンセリングを学ぶことで母親の呪縛に気づいて、実際にはどのように卒業していったのかまでを振り返る
※児童虐待等のセンシティブな表現がありますので、苦手な方はこのページを閉じてください。→ホームへ戻る
両親について
はじめに、両親の簡単なプロフィールをご紹介します。じぶんも親になって初めて、親にも事情があったのだとわかるようになりました。
母は元お嬢様
お手伝いさんがいるような、裕福だが複雑な家庭環境で育った。将来は学校の先生になりたかったが、家業が倒産後、先生になるための進学を諦め、民間企業へ就職。お見合いで父と結婚し(長男長女同士)、二人の娘を出産。男児を産まなかったことにより、本家の跡継ぎ問題への責任を強く感じていたと思われる。子どもには、自分のように苦労してほしくないと心配する気持ちが強かったと思われる。2020年に病気のため永眠。
父親は5人姉弟の長男
祖父が戦時中に結核で死去し(父が小四のとき)、祖母が5人姉弟を女手ひとつで育てた。長女の次に4人兄弟の長男として育つ。高卒後国鉄に就職。皆勤賞で55歳の定年まで無欠勤で勤め上げる。「本当は新聞記者になりたかった」と聞くと、長年我慢して生きてきたのだなと思う。母が病気になるまでは、家事は一切しなかった。「おーい」ですべて済ます典型的な昭和の親父。
母との関係を振り返る
ここからは母との関係を振り返っていきます。
体が弱かったのが、すべてのはじまり
生後数ヶ月して、沐浴中にわたしの左足の蹴りが弱いことを祖父が発見。病院に行くと、先天性左股関節亜脱臼と診断される。健常の赤ちゃんがハイハイして足腰を鍛える時期を、わたしはギプスに固定されて育った。運動ができるくらいまで回復したが、体つきは小さく(家族は皆大きい)、足腰も貧弱に育った。
小学校への通学路では、毎日転んで、怪我が絶えなかった。ひざは毎日できる傷で真っ黒だった。今でも、何もないところでつまづくことがある。
今思えば、母親のすべての心配が、ここに集約される気がしている。
呼んでもらえない名前は、漢字も由来もなかった
物心がついたときには両親・同居の祖母から「お姉ちゃん」と呼ばれる。誰からも本名で呼んでもらえずに育つ。この頃から、長女としての期待役割に応えるようになったように思う。姉妹喧嘩では「お姉ちゃんなんだから謝りなさい」「お姉ちゃんなんだから、我慢しなさい」が常だった。
小学校の国語の授業で、名前の漢字の由来を調べる宿題が出た。両親に聞くと、「予定していた名前は知り合いが先につけてしまった。祖母がうるさく言うのでめんどくさくなって、発音が似ている名前でひらがなにした。当時のテレビドラマでよく出てくる名前だったから」と聞き、ショックを受ける。漢字も由来もなく適当につけられた名前。呼ばれもしない自分の名前が嫌いだった。
のちに、自分の名前を好きになる試みの結果、「さつき うみ」の名前が生まれた。
喧嘩がこわい
幼少期から、両親はよく夫婦喧嘩をしていた。外では明るく話す母だが、家族と会話するときはいつも怒っていたように思う。茨城弁特有の語尾があがるしゃべり方も、怒っているように聞こえて苦手だった。以来、喧嘩や人と衝突する場面は苦手だと感じるようになる。このことから、じぶんの意見をはっきり言ったり、人とぶつかるのがこわいと思うのかもしれない。
結婚して、義母が朗らかに家庭内で話すのが新鮮だった。こういう家庭を作りたいと思った。
習い事
ピアノの体験レッスンを受けて、「通うかどうかは少し考える」と伝えたはずなのに、母が勝手に教室を申し込んできてしまった。自分の気持ちや意見を尊重してもらえないことに対して、腹が立った。
腹立ちは収まらず、全く練習しないでレッスンに行くという態度をとり続けた。中2まで続けたのが不思議なくらい。
今思えば、中途半端な態度で時間を無駄にしたのはもったいなかったし、「嫌だから辞める」とはっきり言えればよかった。とはいえ、その当時はじぶんには選択権がないと思い込んでいたのだと思う。
このことを反面教師にし、じぶんの子どもたちには、本人のやりたいという意思を尊重するようにしている(やりたいかどうかを聞くとなんでもやりたがる子たちなので、情報提供の選別は必要だと学んだ)。
少食、食べるのが辛い
少食だったので、ご飯をのろのろ食べていると「大きくなれないよ」とよく怒られた。保育園でも小学校でも、お弁当や給食を食べ終わるまで外で遊べないという時代だったので、食べることが苦行だった。高校生になると、人前で食べることが苦痛になり、会食ではほとんど食事が喉を通らないこともあった。
わたしの長男も、幼少期から小食だったので心配した。のり巻きを作ったり、好みのふりかけを切らさないようにしたりと、食べられるもののなかで工夫した。母からわたしの幼少期の少食ぶりを聞いて妙に納得したが、変なところが似るものだ。心配してしまう親心をやっと理解できた気がする。
親元を離れてからは、食べることが好きになった。親とのちょうどいい距離感を保てるし、何より友人とおいしいものを楽しく食べる経験ができたことがよかったのだと思う。
読書感想文などの提出物に母親が手を入れ過ぎてしまう
小学一年生のときに、読書感想文「のうさぎにげろ」を書くが、何度も何度も母親に直され、泣きながら仕上げた。最後にはもう、母の書いた内容になっていたんじゃないかと思う。
運動会の標語も、最終的に母親が考えたもので提出した記憶。まさかの採用で、自分の名前で母の標語が校庭ではためくのが、とても恥ずかしかった。
じぶんが考えた内容を否定されるのが続くことで、自信がもてない自己肯定感の低い子どもに育っていった。「声が小さい」とよく通信簿に書かれていた。できないことへの言及により、より自信をなくしていったと思う。
社交的で面倒見はいい母
近所の子を家に呼んで、よく面倒を見ていた母。子どもをからかうひょうきんな面もあった。子ども会の行事は積極的に参加し、ご近所さんと家族ぐるみでキャンプに行ったりもした。
一方で家族との約束よりも、友人とのつきあいを優先する面があり、子どもながらに寂しい思いをしたことも多かった。
小学3-4年でいじめ
ボス格の同級生からいじめを受けはじめたが、家族には言わなかった。家族には心配をかけたくないし、家では笑顔で楽しく過ごしたかったからだ。
あるとき友人の母からわたしの母親にいじめのことが伝わってしまう。辛かったことを思い出し、泣きながらも、子どもながらに一生懸命話したのに「あんたが悪い」と一言。慰めてくれるために話を聞いてくれたのだとばかり思っていたわたしは、予想もしない言葉に、衝撃を受ける。母親には何を言っても分かってもらえないんだと絶望感を味わう。このときに「もう母親には心を開かない」と心を閉ざした気がする。
運動部に入りたい
中学生の部活で、テニスをやりたいと言ったが、「ラケット代が高い。体も弱いからダメ」と母親の一存で書道部に入れられた。運動がしたかったのに納得がいかなかったわたしは、幼馴染のお姉ちゃんに協力してもらい、陸上部に入り直した。このことから、一人で太刀打ちできないときは、人に協力してもらうと物事がスムーズに行くことを学んだ。
また、中学校最後の運動会で、補欠ながらもリレーのアンカーをつとめることができたのも、大きな自信につながった。
就職先に口を出す
東京の大学に入るときに、卒業後は実家に戻る約束で上京した。しかし、就職活動の時にはバブルがはじけて就職氷河期。帰っても地元には仕事はないだろうとじぶんなりに考え、東京で就活していると、毎晩のように「帰ってきなさい」コールがきた。じぶんが現実を見てがんばっていることを認めてもらえず、ただ帰るように言う母とは平行線だった。
結局、自分の意見を通して東京に就職したが、地元の市役所の募集要項が入った手紙が、毎年母から送られてきた(年齢制限が来るまで)。
結婚にまで口を出す
わたしの父親は本家の長男。わたしは二人姉妹の長女のため、婿をとって家を守るように言われて育った(小学生のころから!)。本家と言ってもただの普通のサラリーマン家庭の一軒家。なのに、親戚が集まるといつもその話になり、親戚の集まりが苦痛で仕方なかった。
大学の同級生は、学生時代から戦略的に相手を選んで結婚していたが、じぶんには縁のない話だと思っていた。婿なんてくるわけがないと、どこか諦めていたのかもしれない。
縁あって結婚できたが、晩婚になってしまった。そのときも、まだ婿入りの話が出てきて、愕然とした。最後のチャンスまでつぶされるのかとヒヤヒヤした。
まとめ
幼少期から母親との関係に悩んできたわたしは、その関係性を振り返ることで自身の生き方や自己肯定感について考えるきっかけとなりました。自分の意見を尊重されずに育った経験や、親の愛が一方通行という苦い経験は、じぶんの子育ての反面教師となっています。
幼少期からわたしの体が弱かったため、心配のあまり、わたしに関するすべてをコントロールする必要性を感じ、それが徐々に行き過ぎてしまった母。子どものときは親の気持ちなんて1ミリも理解できなかったけれど、子育てをしている今なら、子どもを心配する親の気持ちがわかります。
当時のわたしは、そんな母の思いをよそに、愛されているという実感をもつことができませんでした。それどころか、「親から愛されていないんだ」と完全に自己否定をしていました。思うように愛されないということは、愛されていないこととイコールだと思い込んでいたのです。
「もっと話を聞いてほしかった。もっとわたしを信じて、意見を尊重してほしかった」
という子どものころの声が聞こえてきます。
その経験を無駄にしないように、もっともっと、じぶんの声も周りの声も聞いていこうと思い、ライフ・コーチングの活動をしています。
次回は母の呪縛に気づき、卒業するまでのことを書きたいと思います。